2015年8月28日金曜日

作り手の顔、買い手の顔。

先日、瓢箪の蟲笛を置いてくれているお店の店長さんから連絡がありました。
蟲笛が売れたとの連絡でした。それも複数個!
売れたことを、売り手と作り手が一番驚いてりゃ世話無いね、なんて笑っていました。私としては「あの雑然とした薄暗い店内でよくあれをみつけたなあ」とも。
ただそこから先、気になることを店長さんから聞いて少し何とも言えない気分でいます。

買ってくれたお客さんのうちの一人が、私の作った蟲笛を見るなり「この人は精神を壊していませんか?お元気ですか?」と聞いたというのです。(それに対して何と答えたかを聞くのを忘れましたが)
その方は、蟲笛をいたく気に入って買っていかれたんだそうで。
近所にあるゲストハウスに何日か宿泊してゆっくりされていた方なのだそうですが、帰る前にもう一度来てさらに買い足して町を後にしたそうです。

その話を聞いて自分としてはとても複雑な気持ちになりました。
その人は蟲笛を見てどんな感覚を持ったのでしょう。
精神を壊している、という表現を聞くと自分のことなんだけれどもやはりなんというか「負の気」のようなものに思えてしまうんですよね。でも、その方は決して安いとは言えないそれをわざわざ買い足すほど気に入って、少なくともお店にあるよりずっと自分に近い場所に持って帰ったってことですよね?
一体その人は蟲笛から、何を受け取ったのだろう。

作品というものは作り手の手を離れた時からすでに、受け手の感受性によって意味を決定されるものだと自分は思っています。それを楽しんでいるところもあります。

でも今回ふと思ったんです。
受け手が感じたことが作り手に気づきのようなものをもたらすことがあるのかもしれないと。

病んでいるかもしれない人間の物と感じた上で、それを気に入って自らの側に喜んで置いてくれる人がいる。

「蟲笛=自分」というつもりではありませんが、自分の存在を肯定されたような感じがして温かいような嬉しい気持ちが湧くのです。

この後も会うことのない人なのでしょうが、見えない窓から「ありがとう」と伝えているつもりです。

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